彼は一介のチンピラだった。高校も出ず、定職もなく、徴兵検査にも落ちるほど虚弱で、観光客向けに絵葉書を書いてウィーンでその日暮らしをしていて、ワーグナーをこよなく愛していた。その男はやがて自身の演説の才能を開花させ、またたく間に人々の注目を集め、ミュンヘンで一揆を起こすが失敗し、仲間とともに刑事裁判にかけられランツベルク刑務所に収監されるが、支持者からの差し入れなどで快適な獄中生活を送る。その間、近所のドミニコ会修道院に余った差し入れが寄付され、空前の賑わいだったという。そしてわずか6ヶ月で仮釈放され、やがてドイツの総統になる。やがてユダヤ人を、、この後はご存知の通り。
ヒトラーの研究は多くが1933年以降のナチスの政権獲得から1945年を対象としていて、それ以前の研究は少ない。本書は元は冴えないヒトラーがいかにして大量虐殺のヒトラーになったのか、そのきっかけはミュンヘンでの一揆から裁判を経て釈放されるまでの1924年に焦点をあてて描いたノンフィクション。巻末の膨大な資料からその実証性に信頼がおけることが分かる。
なんか本書を読むと、あと少しでヒトラーはヒトラーにならずに済んだのに、あれほどの虐殺が実行されることはなかったのにと思ってしまう。実際にそういう機会は何度かあった。例えば、ヒトラーがミュンヘンの一揆で刑務所に送ら仮釈放される際、州検事はこんな危険人物が絶対に釈放されてはならないと全力で動いたし、釈放後にヒトラーをオーストリア国外追放して政治的に抹殺する動きもあったけどオーストリア側がそれを拒んだりと、「あとちょっとでヒトラーは誕生せずにすんだ」が結局はそうならずドイツの総統になっちゃう。
いや、仮にヒトラーが総統になっていなくても、第二のヒトラーが出ていたかもしれない。それくらい当時のドイツは追い詰められていたのですよ。その部分を引用しましょう。
1923年は、1918年の壊滅的な敗戦以来、ドイツにとって最悪の年だった。ハイパーインフレが起こり、通貨価値は1ドル≒ 4.2兆マルクにまでなっていた。パン一斤が二千億マルク、卵一個が約八百億マルクで、金銭ではなく卵二個で劇場のチケットが買われることもあった。しかも、人々の貯金は無価値になっており、農家は、豊作であったにもかかわらず、金を得ても翌日にはほとんど無意味になることから、生産物を売ることを拒んだ。そして食料不足は暴動を引き起こした。このインフレスパイラルに対して、ドイツ政府はただ紙幣の発行を増やし続けるだけだった。国民は手押し車で金を運んで買い物に行くこともあった。
p13
食パン買うのに札束がいくつもないと買えない状況を想像してみてほしい。こんな状況なら誰でも不満たらたらだろうから、そんなタイミングで口達者な扇動者が現れて「○○が悪い」とか言えば、大衆は熱狂するよね。トランプ大統領とヒトラーの類似性を指摘する声があるけど、何者かを悪者に仕立てて、攻撃するのは国内の不満をそらす常套手段で、何度も歴史で繰り返されています。「中国が悪い」「日本車が悪い」「フェイクニュースが悪い」といった感じで「○○」は色々なものに化けます。そしてそういう過激な扇動に反応する人たちも、同じ層です。
ヒトラーは基盤を拡大していった。彼の主張は、公民権を奪われた労働者階級の人々だけでなく、ブルーカラーより少し上だが転落を恐れているプチブルジョワ階級にことのほか受けた。また、裕福な保守層、特に反セム主義者 ーー同時代人に言わせれば、狂信的な「上流階級の大衆」ーーにも受けが良かった。
p38
この引用部分なんかトランプと一緒だよね。分断を煽る人が当選して権力を握ると支持を維持するために、ますます分断を煽ろうとする。だからそういう人が出てきたら我々は注意しないといけない。何も考えず扇動者の言説を聞いていると「ああ、そうかも」とつい思ってしまうけどそれじゃダメで、引っ張られないように意識する必要がある。難しいんだけどね。でも、たいてい扇動者の言説は論理矛盾を含んでいるから、よく聞いたり、よく読むと分かります。最近では杉田水脈氏の新調45のコラムがいい例です。それについては杉田水脈氏の「LGBTは生産性がない」の全文を読んで出した結論で詳しく書いた。
実際には口達者な人に多くの人が魅了されてしまうけど、本書のような事例で追体験しておけば、少しくらいは予防できるかもしれない。アメリカでもヨーロッパでも、もちろん日本でも分断は広がっている今、本書を読む意義は大きい。究極のポピュリズムに触れる怖さ、ぞんぶんに味わえます。この怖さは、稲川淳二の怪談どころではありません。
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