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感動とか自己犠牲を求める風潮に嫌気がさしている人にオススメ『不道徳お母さん講座』

早川朋孝 早川朋孝
ITコンサルタント

SNSが普及したおかげか、社会が感動コンテンツにすっかり毒された感がある昨今。感動コンテンツはシェアされやすいので、そういう風潮を広告として利用したい人が多いのでしょう。Googleで「感動コンテンツ」と検索すると、ほら、こんな感じです。
「感動コンテンツ」の検索結果

しかし感動コンテンツをシェアして人を無理やり感動させるなんて発想は傲慢だし、なにかに感動するかどうかなんていう限りなく個人的な感情の動きを他者がそこに入り込んでどうこうしようなんて大きなお世話でしょ。

そもそも我々はなぜ感動コンテンツやら自己犠牲ネタが好きなのか?

この疑問に答えてくれるのが『不道徳お母さん講座』堀越英美著だ。この本は反感動コンテンツ、自己犠牲を求める世の中の風潮に「コノヤロー」という姿勢で書かれている。本書を読むと「あ、そうだったんだ」と日頃もやもやしていた胸のつかえがとれてスッキリしました。『ごんぎつね』や『スーホの白い馬』などやたら悲しい国語の教科書も、母親の自己犠牲を賛美する風潮も、明治維新から大正にかけての教育に由来します。著者はこれらの時期の教科書や雑誌などの文献を丁寧に読み込み、それをフランクな文体で紹介します。私が注目したのは「教育勅語」のくだりです。その部分を引用します。

果たして、「拠るべき道徳の規」範のない学校で育まれた小中学生たちの自由さは、地域のお偉方たちを大いに苛立たせることになった。地方の知事が集まる明治23年2月の地方長官会議で、「徳育涵養ノ議二付建議」が文部大臣に提出される。これは学校教育のせいで小学生が知識を鼻にかけて無学な親をバカにするようになり、中学生が政治を議論して職員に反抗するようになった事態を憂え、社会秩序を安定させるために徳育を優先せよと訴えたものだった。明治政府は学童生徒に叩き込むべき道徳的お題目の編纂を進める。その結果生まれたのが、神聖不可侵たる明治天皇が親孝行や謙遜などの道徳を親身に語りかけるという体裁の「教育勅語」だった。皇室の道徳を基軸とする教育勅語は全国の学校に配布され、教育会に絶大な影響を及ぼした。

『不道徳お母さん講座』p42

なるほど、面白い。教育の均等化によってそれまで文字を読めなかった大人より教育を受けた子供のほうが頭がよく生意気になってしまった。その子供を押さえつけるために教育勅語ができたというのです。そして軍国主義、帝国主義の影響は大きく、男の子は立派な兵士になるために多少わんぱくでも構わないという風潮があり、その一方で女子は軍人になれないので少女雑誌を読んで女の子らしくなりなさい、というのが一般的な考えとなります。かつては性別を区別されていなかった「少年」という言葉が、1895年以降は「少女」と分けられ、少女文化が始まったと著者は言います。

ないものをつくって人を特定の方向に導いたり商売のネタにしたりする。虚構というほかないものが、明治時代もしっかり利用されていたのです。虚構を利用する人がいるのはいつの時代も同じです。この辺りに興味がある人はユヴァル・ノア・ハラリをぜひ読んでください。人に自由意志はない。生命活動はただのアルゴリズムだ 【読書ノート】『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』【書評】サピエンス全史。どちらも面白いです。

このように、われわれの感動好きな性質は明治・大正期の教育がベースにあることが本書の第一章を読めばよく分かります。日本人が感動話が好きなのは、別に我々のDNAにそう刻まれているわけでもないし、縄文時代からそうであるわけでもない(そもそも縄文時代に「日本」なんて概念はないですが)。江戸時代以前は標準語による均等教育はなかったわけで、現在のわれわれが当然だと思っている道徳観はは、その程度の歴史しかないのです。てゆーか虚構です、虚構。

虚構を大辞林でひくとこうあります。<事実でないことを事実らしく作り上げること。また作り上げられたもの。作り事。>あると思っていたものが実はなかったのが虚構です。ディズニーアニメでミッキーが何者かに追われて逃げているうちに空中を走っていて、振り切ったと思って足元を見たら何もなくてそのままひゅーんと落ろる場面がありますが、あれが虚構です。

かつて、小説は不道徳だったし、哲学も自殺するから読むなと言われた。あと30年くらいすれば、「昔は歩きスマホは不道徳だったんだよ」という時代がくるかもしれない。

母性幻想

母性を美化する日本人の性質についても、感動コンテンツ好きと同じような事情が当てはまります。著者の文献を読み込むという科学的な姿勢は一貫しており、こういう姿勢がトンデモやエセ科学に対抗する武器となります。日本人の母親には母性があるのは神話や宗教の類であると著者は言います。現代は母親が子供のために自己を犠牲にするのは当然という風潮があり、シングルマザーが子どもに献身する感動話は最強のコンテンツとしてもてはやされます。そのコンテンツ中で母親が死にでもすれば完璧です。

家の奥にいた女が「母親」という概念を適用され脚光を浴びたのは大正5年だそうです。これは考えてみれば当然のことで、日本の古い「家」制度の中心は男で、家長たる男が「家」の全てを取り仕切ります。母子が愛情で結びつく一家団欒な家庭というのは欧米の概念が輸入されたものです。そして子供を戦地に送った母親も虚構の力で騙されてしまいます。これについては引用します。

大正期は新中間層の母親に向けて、数多くの家庭教育書が刊行された時期でもある。なかでも女子教育家・下田次郎の『母と子』(大正5年)は、母を聖なる存在として賛美したことで主婦層に支持され、昭和五年までに二三刷を数える大ベストセラーとなった。欧米留学経験の豊富な著者、聖書や仏教経典、西洋文学やおとぎ話など、古今東西の聖母エピソードを縦横に引用してみせた。そして女性にはこのような神性が潜んでいるのだから、育児という「道徳的修養」の機会に徳を積み、母の尊厳と栄光を手に入れよと、一般の母親層を鼓舞したのである。それまで家庭の中に閉じ込められて侮られていたのに、いきなり光を当てられ神様扱いされた女学校出の奥様たちが、自尊心をかきたてられたことは想像にかたくない。

『不道徳お母さん講座』p42

感動コンテンツも母性幻想もたった100年程度の歴史しかないのに、腹立たしいことに今日大きな影響を与えています。単に腹が立つだけならいいですが、二分の一成人式やら組体操には実害があります。二分の一成人式は親子関係が疎遠な子どもを傷つけるし、組体操は障害が残るほどの大怪我をする可能性がある。そこまでして感動を求める必要はないでしょ。

ちなみに虫唾がはしる「二分の一成人式」を推進している保守系の教育団体TOSSや、どう考えても子供に危険な組体操の起源が戦場で塀を超えたり偵察に有用な人間梯子であることを本書は暴露します。日頃か鬱憤のたまっているお母さんやお母さんではなくてもPTAに強制的に入らされてイライラしている諸兄には、まっこと痛快な内容です。トンデモやエセ科学をかざして実害をばらまく人々にはこの科学的姿勢で対抗しましょう。

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このブログを書いてる人
早川 朋孝 EC専門のSE
IT業界歴20年のエンジニアです。ネットショップ勤務で苦労した経験から、EC・ネットショップ事業者に向けて、バックオフィス業務の自動化・効率化を提案するSEをしています。
Web運用の経験もあり、アクセス解析、広告運用が得意で、広告APIとプログラムとの合わせ技で並の広告代理店にはできない提案が可能です。
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趣味は読書、ピアノ、マリノスの応援など
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