歴史を学ぶ意義はどこにあるのか?と問われれば、それは過去に起きた人間の行動パターンを知ることで、自分が生きている
今まさにこの時、そしてこれからの未来に起こることをある程度予想できることと即答します。例えば新社会人が社会に出て仕事を始めると、知らないことや予想外のことが次から次へと押し寄せてくる。あるいは、自分で起業し会社を始めた人は、ある程度会社が大きくなってきたりすれば、やはり予想もしていなかったことが起きて翻弄されるかもしれない。その結果ビジネスの遂行に致命的なダメージを受けることは十分考えられる。そういう事態はなるべく避けたいもので、ではどうすればいいのか?その問いに対する回答が歴史を学ぶことだ。
人間はどうしても自分の知っていることの範囲内でしか物事を考えたり判断できないわけで、その範囲の外側にあることが起きるとなすすべがない。もしそういう事態に直面した場合、まったく同じとは言わないまでも似たような事例を学んでおけば、あるいは対処できるかもしれない。その事例こそが歴史だ。繰り返しになるが、大事なことなのでもう一度書く。歴史を学ぶことで将来予想外のことが起きたときに、自分の対応の幅を広げられるのだ。
コスパよし
以上のような観点から歴史を学ぶことを見てみると、めちゃくちゃコスパがいいことが分かる。だって考えても見て欲しい。本に書かれているのと同じことを自分が経験しようとしても、そんなことはほぼ不可能だし、仮に可能な場合は恐ろしいまでの時間と費用がかかる。例えば、ある優れた学者が自身の生涯をかけた渾身の一冊を上梓(じょうし)したとして、その本が5000円で買えるならば間違いなくお買い得である。なぜならその本を読まずに、その学者と同じ知識を自分で得ようとする場合、その学者と似たような努力、時間、金銭が必要になるからだ。しかし事実上そんなことは不可能だ。だからたった1冊の本を読んで理解できれば、それは最大限にお得と言える。
世の中には確実な投資など存在しないが、書籍においてはその例外だろう。まっとうな本をちゃんと読んで理解、消化し書かれていることを自分の道具として使えれば、これ以上の投資はない。これは断言できる。そこであまり歴史を勉強したことのない人はこう思うかもしれない。「単に歴史と言っても何を読めばいいか分からないよ」と。そういう人にはとりあえず手始めに『教養としてのローマ史の読み方』をすすめる。
『教養としてのローマ史の読み方』
日本人がイタリアをに旅行する、あるいはヨーロッパに仕事で赴任、出張する場面を考えてみよう。訪れる国の歴史を事前に学ぶと楽しさは倍増する。訪れる国の人にとっての当然の前提事項を抑えておけば、現地の人と話しもはずむし、ましてビジネスで行くならそういう姿勢は信頼につながる。これは逆の立場になって考えてみるとよくわかる。最近は日本でも外国人は多いが、次のような場面をちょっと想像してみてほしい。海外から来てる職場の同僚の口から「織田信長はあと少しで天下とれたのに、惜しかったよね。」という言葉が出てきたら、「○○くん、日本の歴史に詳しいね、すごいね」とこちらの態度がだいぶ変わるのではないだろうか。
たいていの日本人なら歴史に興味がなくても戦国大名の名前を2、3挙げるくらいはわけないでしょう。西欧人の場合、それと似たような感覚がある対象となる時代は、古代ローマ時代です。カエサルやスキピオといった英雄の名前は、西欧人なら誰でも知ってる。日本人がまったく面識のない現地の人に、過去の偉人の名前とその業績を挙げれば、すっと相手の懐に入れるかもしれない。
『教養としてのローマ史の読み方』の何がいいかって、水準の高いことが平易な言葉で書かれていることにある。さらに、上述した類比的な物の見方が豊富に書かれているので、歴史を学ぶ意義も学べるというとってもおいしい本。そしてローマ史の概観もつかめる。これだけの内容でありながら1,944円とは、読んだ者の身としては著者と出版社に感謝しかないですわ。この本のタイトルを最初に見た時は、流行りの浅い教養本かと思いきや、実際に読んでみると深い洞察に溢れていた。こういうものの見方ができれば、新聞を読んだときに得られる情報もひろがる。
ローマ史には働き方改革のヒントすらある
4月から日本では働き方改革なる奇妙な法案が施行され、いろいろ思うところがある人はいるでしょう。それについては「働き方改革?寝言いってんじゃねーよ、ごらぁ!」という人は一読を 熊野英生著『なぜ日本の会社は生産性が低いのか?』に書いたが、古代ローマでもばりばり仕事したい人もいる一方、個人の時間を大切にしたい人がいたのだ。『教養としてのローマ史の読み方』からその部分を引用する。
よくエピクロス派は快楽主義、ストア派は禁欲主義と言われますが、実際にはそう簡単な話ではありません。エピクロス派は確かに快適な生活を目指しましたが、快楽を貪ったわけではなく、暴飲暴食を戒めるなど、むしろ禁欲的なのです。
では、なぜ快楽主義と呼ばれたのかというと、エピクロス派は、公職や公務を徹底して嫌ったからなのです。エピクロス派の人々が理想としてのは、自分と自分の周りの親しい友人たち、つまり家族や友人たちと楽しい生活を送ることだったからです。公務を嫌ったのは、公職には責任が伴うので、そんなものを引き受けてしまったら、責任を果たすために個人としての幸せが阻害されてしまうと考えたからです。
一方ストア派は、日々の生活においてはエピクロス派と同じように禁欲的なのですが、公務についてはある程度は就くべきだと考えます。きちんと公務を果たし、その中で「オーティウム(暇)」をつくって、そこで自分のしたいことをするのがいい、というのがストア派の考えです。
実は、ヘレニズム期からローマの帝政期の数世紀間、古代地中海世界の人々は、エピクロス派かストア派か、どちらかの考え方に魅了されていたのです。
ローマ人はどちらが多かったのかというと、実はストア派でした。
帝政期のローマ人というと、「パンとサーカス」を享受している姿や、ポンペイの壁画に見られるような宴会の風景などから、エピクロス派のイメージがあるかも知れませんが、エピクロス派はあまり流行りませんでした。
『教養としてのローマ史の読み方』P240
こういうのを読むと、今も昔も人の本質は変わってないとわかる。またまた繰り返すけど、だからこそ、歴史を学ぶ意義はあると分かるでしょ。『教養としてのローマ史の読み方』は歴史を本格的に勉強する時間がないという多忙なビジネスマンにうってつけ。また、この本に書かれている程度の知識もない人が、有名観光地だけを回って「わーい、ローマ楽しい、ジェラート美味しい」とはしゃぐのは、せっかく歴史ある国を訪ねておいて何も見ていないのに等しい。清少納言の表現を借りるなら「いとわろし」。
- おすすめ度★★★★★
- お買い得度★★★★★
- 読み応え度★★★
- 一気読み度★★★