レイチェル・カーソンの『沈黙の春』って名前は有名だけど実際に読んだがことあるという人はどれくらいいるのだろう。たぶんあまり多くないのではないだろうか。しかし『沈黙の春』を読まないのはもったいない。これほど環境問題を提起し、多くの人に影響を与え、そして実際に世の中を変えた著作はほかにないと思っている。『沈黙の春』は昔さらっと読んだ程度だったので今回改めて新装版を買って連休中に精読してみた。昔よりは読解力が増したので得られる情報も増えた。大人になってから古典の再読はいいことづくめ!
『沈黙の春』という題名の由来
レイチェル・カーソンは1962年に『沈黙の春』を著した。この頃は日本でもイタイイタイ病とか水俣病などの公害病があったけど、『沈黙の春』もそれと同じ時代の作品だ。当時の先進各国では資本主義の論理が最優先され、環境破壊が繰り返された。もっとも当時はか「環境」という概念がないに等しかった。効率よく作物を収穫するため、あるいは害虫を駆除するために農薬のDDTが撒布された。土は化学物質にまみれ、自然環境は人間に破壊されていった。そしてある年の春、レイチェル・カーソンは気づいた。鳥が鳴きやみ、森には鳥や虫の死骸が落ちていて、いつもはにぎやかなはずの春が沈黙していると。その一節は以下のように大変詩情あふれる美しい文章で綴られている。
鳥がまた帰ってくると、ああ春がきたな、と思う。でも、朝早く起きても、鳥の鳴き声がしない。それでいて、春だけがやってくるーー合衆国では、こんなことが珍しくなくなってきた。いままではいろいろな鳥が鳴いていたのに、急に鳴き声が消え、目をたのしませた色とりどりの鳥も姿を消した。突然、知らぬ間に、そうなってしまった。こうした目にまだあっていない町や村の人たちは、まさかこんなことがあろうとは夢にも思わない。
p124
レイチェル・カーソンは『沈黙の春』でDDTという薬品の散布がいかに環境に悪いかについて淡々と書き続ける。1950年代のアメリカでは人間の都合で畑から虫を駆除するためにDDTスプレーが大量にまかれた。DDTに含まれる化学薬品が毒となって虫を殺し、動物を殺し、環境を殺し、そして人間に牙をむいて返ってきたのだ。というのも人間は食物連鎖の頂点に立っているから、自分で散布した化学物質がやがて人間に返ってきて健康に害をなす。そんな愚行はやめないといけないと著者は警告した。この必ず止めないといけないという著者の魂の叫びのような主張はシンプルかつ明快、そして冷静な筆の運びで語れる。だからこそ説得力がある。
『沈黙の春』の何がすごいって、著者の怒りがすさまじいのだけど、にもかかわらず文体が全く下品ではないことだと思う。レイチェル・カーソンの静かで冷静な筆の運びの中に怒りがにじみ出ているのは誰が読んでも明らかなんだけど、文章が上品に書かれていて、これはSNSで散見する感情任せの表現とは対極をなす姿勢でしょう。冷静に事実を積み重ねて薬品散布がいかに環境に悪いかを証明していく。本来文章とはこうあるべきという文字通りお手本と言える。
当時環境問題など誰も関心がなかった。というか、環境問題という概念や発想がなかったと言える。当時、おそらく孤独のうちに書かれたこの作品を仕上げて発表するのにどれだけの勇気と忍耐が必要だったのだろう。存在しない自然破壊という概念なのだからレイチェル・カーソン1人が声を上げても容易には人に届かない。そこで著者は文章の中でいろいろな工夫をした。例えば、西洋の知識人なら誰でも知ってるギリシャ神話を比喩的に用いたりした(下記に引用する)。親しみのある表現なら、知らない分野のことでも人は耳を傾けるから。そうやって環境問題という当時は未知の概念を多くの人に浸透させた。
ギリシア神話では、夫イアソンを奪われた魔女メデイアが、新婦に毒の衣装を贈る。それをまとうやいなや、たちどころに苦しみもがいて死ぬ、ガウンなのだ。このような<<間接致死>>ともいうべき殺人や、いまや<<浸透殺虫剤(組織殺虫剤、全身殺虫剤などともいう)>>を使っていともたやすく行われる。草木や動物に浸透殺虫剤という毒をまぜる。すると、草木や動物はたちまちメデイアのガウンにかわってしまう。やがて、そこに昆虫がやってきて、毒の入った樹液や血を吸う。
p51
『沈黙の春』の中でレイチェル・カーソンは自分の主張を何度も粘り強く繰り返す。同じことを表現を変えて何度も言っているのだ。だから読んでいる人は反復される著者の主張が頭に入ってくる。そして環境破壊という問題があると知る。その主張を端的にまとめると以下のようになる。
- 散布した化学薬品は自然には決して消えず毒は蓄積する
- 人間は自然はコントロールできない
- 人間は自然に対して思い上がるな
これらの繰り返される主張を読んでいてある漫画のことを思い出した。それは『風の谷のナウシカ』だ。宮崎駿さんに直接聞いたわけじゃないからただの推測にはなってしまうけど、おそらく『沈黙の春』は『風の谷のナウシカ』の種本になっているんじゃないかな。『風の谷のナウシカ』や『天空の城ラピュタ』に出てくる自然への強いメッセージと同じものが『沈黙の春』に何度も出てくる。それだけ『沈黙の春』が多くの人に影響を与えた作品と言えると思う。以下の一節も読んでいて何も感じないという人はあまりいないでしょう。
イリノイ州で使った殺虫剤は、相手かまわずみな殺しにする。ある一種類だけを殺したいと思っても、不可能なのである。だが、なぜまたこうした殺虫剤を使うのかといえば、よくきくから、劇薬だからなのである。これにふれる生物は、ことごとく中毒してしまう。飼猫、牛、野原のウサギ、空高くまいあがり、さえずるハマヒバリ、などみんな。でも、いったいこの動物のうちどれが私たちに害をあたえるというのだろうか。むしろ、こうした動物たちがいればこそ、私たちの生活は豊かになる。だが、人間がかれらにむくいるものは死だ。苦しみぬかせたあげく殺す。シェルダンの町で専門家が、死に瀕しているマキバドリを観察しているが、それはー《<筋肉の調整ができず、飛ぶことも立つこともできず、横倒れになりながらも、羽をしきりにばたつかせ、足指は、しっかりにぎられていた。嘴をあけたまま苦しそうに息をしていた》。もっとあわれだったのは、ジリスだった。どんなに苦しんだか、その死体はその跡を無言のうちに語っていた。《背中を丸め、指をかたくにぎったまま前足は胸のあたりをかきむしり・・・・頭と首をのけぞらせ口はあいたままで、泥がつまっていた。苦しみのあまり土をかみまわったと考えられる》。
生命あるものをこんなにひどい目にあわす行為を黙認しておきながら、人間として胸の張れるものはどこにいるであろう?
この引用のように怒りに満ちながらも冷静な筆致は、他者へ自分の考えていることをどう伝えるかべきかの参考になる。『沈黙の春』というと、読者は環境問題を扱った著作として意識するが、伝え方も学べてしまうお得な作品なのだ。
残念ながらレイチェル・カーソンの警告は必ずしも世界中に届いたとは言い難い。6度目の大絶滅に書いてあるように、現在は大絶滅時代という見方もある。その原因として人間の散布した化学薬品はもちろん、最近話題になっているプラスチックなどが挙げられる。こういう時代だからこそ、改めて『沈黙の春』を読む意義はあるだろう。私たちは地球や自然を人間にだけ都合のいいものとして捉えすぎていると思い知る。目先の売上に必死な会社経営者や営業マンなども、深い洞察を得られるだろう。
それにしても『沈黙の春』は、きっとレイチェル・カーソンの英語の文章も美しいのだろうけど、それ以上に訳文が見事だと気づいた。翻訳した青樹簗一さんすごいわ。
沈黙の春 新装版 新潮社 青樹簗一訳
- おすすめ度★★★★★
- お買い得度★★★★★
- 読み応え度★★★★
- 一気読み度★★★★